見られることを必要としない絵 −アウトサイダー・アートへの「境界線」



 アウトサイダー・アートの定義の困難は、それがあるひとつのまとまった流派なり様式なり集団なりに対する呼称ではなく、あくまでアートの内側から見た「アウトサイダー」の総称であることに尽きる。つまりアートの定義に外れるアートこそがアウトサイダー・アートなのであって、アウトサイダー・アートを定義することはアートを定義することと不可分である。アウトサイダー・アートにまつわる問題は常にアートの内側における問題なのであって、それはアウトサイダー・アート自体に属する問題ではない。アウトサイダー・アートの定義が不鮮明であるとするならば、偏にそれはアートの定義自体が曖昧であるからに他ならない。

 「アウトサイダー・アート(部外者の芸術)」あるいは「アール・ブリュット(生の芸術)」は、その呼び名に象徴されるように「アート」の範疇に呼び込まれながらも、その「外部」もしくは「エッセンス」であると留保されることにより、その内部において「例外的な存在」であることを余儀なくされている。
 そこには二つの問題が存在する。
 ひとつは、なぜそれが「例外」であるのか?
 いまひとつは、なぜそれにも関わらずそれは「アート」であり得るのか?、だ。

 第一の点、すなわちそれをアートにおける例外的な存在とする意識からは、それを定義するものの「アート」に対する見解が透けて見える。
 つまりアウトサイダー・アートの定義を「芸術家として専門教育を受けていない作者による芸術表現」とするものにとって、アートとは「芸術家として専門教育を受けた人間によるもの」なのである。アウトサイダー・アートを知的障害者による芸術と定義するものには、アートとは知的な作業であるという見識が見え隠れする。アウトサイダー・アートの作者を「芸術家としての名声を獲得することに無関心であること」などと定義するものまであるが、これなど「インサイド」のアーティストに対するアイロニー以外のなにものでもない。

 第二の点は、少々複雑である。一旦「アート」の定義から除外したものを、それにも関わらず再び「アート」の範疇へと入れようとする、その理由。それは何か?
 第一の点、すなわちある表現を「アート」からの例外とする意識が、「アート」に対する論理的な定義に拠っていると考えると、この第二の点、すなわち論理的な定義から外れているにも関わらずなおそれを「アート」の範疇へと収めようとする意識は、「アート」に対する直感的な判断にこそ拠っていると考えられる。つまり人がある表現を「アート」であると判断するとき、そこには論理的な判断と直感的な判断のいずれかが、あるいはその両方が働いているのだ。
 そして、論理的に識別すれば「アート」の定義からは外れるものの、直感的なレベルにおいては「アート」であると感じるもの、それこそが「アウトサイダー・アート」なのである。

 その意味において言えば、アウトサイダー・アートを定義することは、それを定義するものの芸術観の吐露でもある。そして、アウトサイダー・アートについて考えることは、そのまま「アート」というものの本質について考えることでもあるのだ。


 ちなみに俺はアウトサイダー・アートを、「受け手を必要としない表現(にも関わらずその表現が第三者に芸術としての感銘を与えるもの)」と定義したい。
 受け手を「欲しない」のではなく「必要としない」。つまり作者の自己満足のために為される表現のことではなく、作者の意図に関わらず、その表現自体が受け手を必要としないで自立しているもの。例えば、作者以外の誰からも見られることを必要としない絵、読まれることを必要としない小説、聴かれることを必要としない音楽・・・そんなものこそがアウトサイダー・アートであると、ここでは定義してみたい。

 見られることを必要としない絵、それは具体的にはどんなものだろう?
 おそらく真っ先に思い浮かぶのは「趣味で描く絵」ではないだろうか。プロの絵描きが仕事で描く絵に対して、アマチュアが自分の楽しみだけのために描く絵。それこそが「見られることを必要としない絵」だと、そう思う人は多いのではないだろうか。
 しかし、それは間違っている。アート/アウトサイダー・アートの区別がプロ/アマチュアではないように、アマチュアが描いた絵だからといって、即「見られることを必要としない絵」であるとは限らない。
 「趣味の絵」とは、どのように描かれるものなのかを考えてみよう。カルチャーセンターや専門のサークルなどで学んで、あるいは手引書を参考にしたり、あるいは美術館や画集などで見た絵の印象をもとに独学で描かれることもあるだろう。
 しかしどんなに独りで試行錯誤して描かれた絵であろうとも、その出発点には「自分もこういう絵を描きたい」と思うに至った言わばプロトタイプとなる「お手本」があったはずだ。「趣味の絵」とは、おそらく全くの無からの創造によってその表現が出発するのではなく、「こういう絵を描きたい」という「目標」が先にあった上で描き始められるものなのだと考えられる。描き始めの動機が純粋にただ「描きたい」という衝動であったとしても、その衝動が向かうべき「お手本」がビジョンとしてその先にあったはずなのである。「絵画」というものを生まれてから一度も目にしたことがなく、いきなり「趣味で絵画を描こう」と思い立つものはおそらく稀であろう。
 そして、たとえその絵が誰にも見せることなく純粋に「描く」という個人的な楽しみだけのために描かれたのだとしても、その「お手本」となるべきプロトタイプの作品が既にフォーマットとして「見られることを必要とする絵」である以上、それは紛うことなく「見られることを必要とする絵」の範疇にあるのだ。作者にとっては見られる必要がなくても、描かれる絵自体は「見られることを必要とする絵」に違いない。
 アウトサイダー・アートの大きな特徴の一つとして、既存の表現媒体にはない独自の表現形式が多く採用されることが挙げられる。そのことは「アウトサイダー・アート」の定義の一つともされているが、それには以上のような理由が関係していると思われる。つまり今世の中にある「絵画」や「彫刻」といった表現形式は、受け手に「見られること」がない限り成立しないメディアなのである。「見せるつもりがない」とか「自分の楽しみのためだけのために描く」だけでは不十分なのだ。「受け手を必要としない表現」は、多くの場合まずその表現フォーマットから新たに作り出さなければならない。

 では、それはいったいどのようなものなのだろうか?
 先日、松下電工汐留ミュージアムで見た『アール・ブリュット/交差する魂』展(*1)より、いくつか具体例を挙げてみよう。

 例えば、戸來貴規による「日記」がある。それはどこにでもあるようなB5サイズの安価な紙に描かれた、いままでどこでも見たことのない不思議な文様が描かれたドローイング作品である。そのドローイングが紐で10センチ以上にもなるほどの厚さに束ねてある。紐を通すため紙の中央付近に無造作に空けられた穴や、ゴミのように束ねられた大量の紙片の存在感と、その対極を行くような未知の文様のあまりの美しさに、思わず息を飲む。その「美しさ」のもたらす感動は、まさしく芸術的な感銘以外のなにものでもない。
 しかしこの戸來のドローイングは他者に見せるために作成された「芸術作品」ではない。タイトルが示すようにそれは日記なのである。戸來の制作の様子や「日記」の解析を紹介したDVD(*2)を見ると、マッタクの未知の文様かと思われたドローイングが、実は解読可能な日本語であることがわかる。日付、曜日、気温、名前、日常の出来事の記述など、これはまぎれもなく日記なのだ。
 ある表現における「自己目的性」と「他者への伝達」の問題を考えるとき、日記は非常に示唆に富んだ媒体だ。人知れず書かれる数多の日記はいったい誰に向けて書かれているのか? 現在ではインターネット上で公開されるブログといった人に読まれることを前提に書かれる日記もあるが、それ以外の場合、死後に研究者の調査対象になるような著名人ならともかく、無名の市民が日々書き続ける日記は、いったい自分が誰に向けて書いているのか書いている本人にもはっきりしていない場合が多いのではないだろうか。しかも戸來の「日記」は、興味を持った福祉施設の職員に「解読」されるまで、誰もそれが日記であることにさえ気付かなかったのだという。本人以外はそれが日記だとすら気付かれぬまま書き続けられる日記。それは日記として読まれることも、ましてや芸術作品として見られることなど、全く「必要としていない」ように見える。

 あるいは喜舎場盛也の漢字の「作品」。航空管制用紙を漢字でビッシリ埋めた代表作もそうであるが、彼の「ひらがなをすべて漢字に書き換えた図鑑」を見たときに、俺は一人の作家としてそこにどう頑張っても超えられそうにない「アウトサイダー・アートへの壁」を感じた。漢字に対して偏執的な興味を示す喜舎場にとって、図鑑に書かれたひらがなを自分の偏愛する「漢字」に書き換えることは、もはや本能的な行為に近いのかもしれない。しかしその結果出来上がったモノは、「芸術作品」に勝れども劣らぬ視覚的強度を備えている。実際、同じような表現を行う現代の「インサイド」アーティストがいてもおかしくないと、会場でこの「作品」を見たときには思った。それほどこの「書き込み図鑑」は現代美術作品然とした佇まいを有している。
 しかマッタク同じ「作品」を、もし「インサイド」のアーティストが芸術作品として作ったとしても、決して喜舎場の図鑑と同レベルのインパクトは持ち得ないだろう。喜舎場の「書き込み図鑑」は他人に芸術作品として見られることはマッタク必要としていない。それは喜舎場本人以外の誰の目に留まらずとも、表現としての「役割」は充分果たしている。ひらがなから変換された漢字で余白を埋め尽くしたというその事実だけで、この「書き込み図鑑」の表現としての役割は既に終えているのだ。それを「芸術作品」として見ることは、第三者が勝手に見出したオプションに過ぎない。
 しかし同じ行為を「インサイド」のアーティストが芸術表現として行った場合、それが他人に見られることがなければ、なんの意味も生み出さない。その行為も、その「作品」も、マッタクの「無」となる。

 その差は大きい。いや、大きいどころではない。ハイ・カルチャーからロー・カルチャーに至るあらゆる文化的な表現は「受け手」を必要とする。どのようなジャンルの表現であろうとも、それを「作品」として受容する受け手がいない限り、それは「作品」足り得ないのである。しかし戸來や喜舎場の「作品」は、もともとそれが「作品」として受容されることを必要としていない。それは誰からも「作品」として認知されなくても、あるいは誰にも見られることさえなくても、その存在意義を失うことがない。それこそが「インサイド」のアーティストが決して超えることの出来ない、アウトサイダー・アートへの「壁」なのである。


 岡本太郎はその著作の中で、芸術なんて道を歩いているときに突然大声で叫びたくなり駆け出したくなる衝動と同じような、単純なことだと思っていいと言っている(*3)。芸術の根本にあるのは、そういった原初的な名付け得ぬ衝動だろう。
 しかし衝動は衝動そのままでは芸術にはなり得ない。衝動を昇華するための理性的なプロセスが、そこには必要となってくる。あらゆる芸術表現はそうした原初的な衝動と、それを「作品」として対象化する自律的な作業の両輪で成り立っていると言っていいだろう。
 爆発のように内側(自己)から外側(世界)に向けて四方八方に弾け飛んでいく力に、方向を与えて制御する作業が「作品化」のための衝動の「対象化」である。そこで必要となるのが「受け手」の存在だ。具体的なものにしろ抽象的なものにしろある表現が「受け手」を必要としたとき、それは必然的に表現の洗練を生む。あてどもなく放射され消えていくはずだった「衝動」は、そこで射抜くべき的と向かうべき方向を与えられ、その力をより具象的に先鋭化する。

 しかしそれと同時に「受け手」の存在は、しばしば始点にあったはずの根源的な衝動を薄めてしまう危険性も持っている。「受け手」の存在が、その表現の必要性を自身に発する根源的な衝動から、「受け手に受け入れられること」へとシフトさせてしまうのだ。本来的な目的を見失った表現は、単なる「内輪受け」へと堕する。仲間内の趣味のサークルにせよ、所属する公募団体にせよ、アート・マーケットにしろ、あるいは「美術界」にしろ、規模の大小に関わらず自閉したサークルのなかのみで完結した表現は、すべてこの表現の「内輪受け」化によって貧困化していく運命にある。
 それに対して「受け手」の存在自体を必要としないアウトサイダー・アートでは、表現の根本にある原初的な衝動は減じることなくダイレクトに表れる。「インサイド」のアートの「内輪受け」化に食傷した目には、その薄まることのない原初的な衝動は鮮烈に写る。「生の芸術(アール・ブリュット)」との命名も、おそらくそうした点にこそ拠るのだろう。アウトサイダー・アートが「インサイド」のアートよりも「アートらしく」見える所以はそこにある。

 しかし、表現における「受け手」の必要は、必ずしもマイナスの作用ばかり生むのではない。先にも書いたとおり、「受け手」の必要は表現の洗練を生む。特に優れたポピュラー・カルチャーなどにおいては、「受け手」の必要性はその創造の主たる原動力になっていると考えられる。
 さらにはアウトサイダー・アートに継承性がなく、その作者一代限りの固有の表現として歴史の流れのなかで孤立し連続性を持たないのに対して、「受け手」を必要とするアートは、継承性や連帯性を有し、ムーブメントを興して、歴史を形成する。アウトサイダー・アートだけでは、人は連続した文化史も芸術史も持ち得ないだろう。その継承性・連帯性は、「受け手」を必要とすることによってこそ可能になっているのである。
 表現の洗練と貧困は、常に背中合わせに存在する。アウトサイダー・アートはアートへの合わせ鏡として、そのことに気付かせてくれる。


 ただ、ここでひとつ疑問が残る。それは「受け手」の欠落した表現が往往にして自己満足の域を出ないものであるにも関わらず、なぜ我々は「受け手」を必要としないアウトサイダー・アートから心揺さぶられる「芸術的感銘」を受けるのか、という「謎」だ。

 我々がアウトサイダー・アートに感じる「芸術的な感銘」は、例えば自然の風景などを見て「美しい」と感銘を受けるのとは、あきらかに別種のものである。わかりやすい例を挙げるならば、例えば蜘蛛の作る網状の巣は美しい。我々はしばしばその造形的な美に魅せられる。しかし当然のことながら蜘蛛の巣は蜘蛛が獲物を捕獲するために作られたものであり、造形的な美しさを目的として作成されたものではない。あくまでそれは第三者である我々人間(当事者は蜘蛛と捕獲される獲物たち)の目から見たときに美しいのであって、その美しさは蜘蛛の巣にとっては完全に副次的なものである。いわばそれは「見られることを必要としない絵」と同じである。
 もしアウトサイダー・アートの表現が完全に自己完結した「他者」の欠落した表現であるのならば、我々はそこから蜘蛛の巣の美しさに胸打たれるような方法でしか「感銘」を受けることが出来ないのではないだろうか? 先に自分は喜舎場の「書き込み図鑑」を「芸術作品」として見るのは第三者が勝手に見出したオプションに過ぎないと書いたが、つまり蜘蛛の巣の美しさが「他者」に向けた表現ではなく二次的な副産物なように、我々もアウトサイダー・アートをその本来の表現のベクトルからは無縁の場所で、副次的に「芸術」として楽しんでいるだけということになるのではないだろうか?

 しかし、自分にとってアウトサイダー・アートの表現から受ける感銘は、蜘蛛の巣の美しさから受ける感銘とは根本的に異なったものだ。言ってみればそれはもっと「人間くさい」感銘なのである。
 我々が非人造物である自然の風景などに「感動」するとき、そこには感動の対象から「他者」へと向けて発せられた「表現のベクトル」は存在しない。それに対し、アウトサイダー・アートの作品を見たときに受ける「感動のベクトル」とアウトサイダー・アートの作品の発する「表現のベクトル」は、ほぼ同じ方向を向いているように感じられる。少なくとも我々はアウトサイダー・アートの「表現のベクトル」には一切関知することなく、二次的副産物として彼らの作品に感銘を受けているとは言えないのではないだろうか。

 現実問題として、アウトサイダー・アートの作者たちが完全に受け手不在で100%「自分」だけに向けて表現をしているのかと言えば、若干疑問の残る余地はある。例えば戸來の場合、彼の「日記」の原型として彼が少年時代に学校の課題(?)で書いていた、教師に提出するようなかたちで書かれた日記がDVD内では紹介されているが、もしそうであるならば戸來にとって日記とは本来「他者に向けて書かれるもの」であったはずなのだ。その少年時代の日記は彼が現在書き続けている「日記」と違い、判読可能な文字で書かれている。その第三者に提出されるために書かれた日記が、判読不能な装飾文字による「日記」となり、そして誰に読まれる当てもなくひたすらその束ねた紙片の厚みのみを増していくに至るわけだが、果たしてそこで日記の受け手となる「他者」は消滅したのだろうか? 誰かに読まれる当ても、意図も、努力も、必要もそこには認められないけれど、しかし確実に作者一人のなかで自閉し自己完結した内向きのベクトルだけではなく、方向も行き先も感知できないけれど、それでも確かに「外側」へと放射された「表現のベクトル」の存在を、そこから感じ取ることは出来ないだろうか?
 さらに顕著な例で言えば、アウトサイダー・アートの作者の中に多く見られる、マッジ・ギルやラファエル・ロネのように交霊術との関わりによって精霊や神などの超越的な「他者」に向けて制作するアーティストたちがいる。戸來の「日記」の場合も、実存的な第三者から超越的な「他者」へと、その表現の「受け手」が推移したと考えることも可能かもしれない。
 しかしそこで言う超越的な「他者」とは、第三者的な視点から見た場合「自分」と判別が困難なものでもある。「精霊」が見えぬものにとって、それは内なる幻影へと向け自閉しているようしかに見えない。無限の距離を指向するベクトルは、傍から見ると内向きに自足し、どこへも向かっていないように見えるのだろうか。そこでは表現における「他者」の問題が、より複雑な形で提示されている。


 当初俺はこの文章を、アウトサイダー・アートの定義を「受け手を必要としない表現」とすることで、それを自分も含む「インサイド」のアーティストが決して超えることの出来ないアウトサイダー・アートへの「壁」として書くつもりだった。しかし、アウトサイダー・アートの表現のなかに「他者」へと向かうベクトルが孕まれているのであれば、もはやそれを「受け手を必要としない表現」と呼ぶことは能わないかもしれない。結果「定義」は破綻し、アウトサイダー・アートとそれ以外のアートを区切る「壁」としての境界線は消滅する。

 その定義の脆弱さ自体は俺自身の「アート」に対する定義の曖昧さを反映しているということでもあるのだが、それを承知の上で言うならば、もしかしたらアウトサイダー・アートと「インサイド」のアートは、「受け手」の位相が異なるだけで、表現としての構図は相似形を成しているのかもしれない。であるならば注目すべきはむしろ二者を区別する分水嶺よりも、両者を相似形足らしめている共通項である「<他者>へと向かう表現のベクトル」のほうではないだろうか?
 なぜならばそれこそが、我々が人の手による「芸術」と呼ばれる表現に魅かれるその理由なのかもしれないからだ。



*1 『アール・ブリュット/交差する魂』松下電工汐留ミュージアム(2008年5月24日〜7月20日) 他に北海道旭川美術館、ボーダレス・アートミュージアムNO-MAを巡回
*2 『日本のアウトサイダーアート2 <文字という快楽>』NPO法人はれたりくもったり
*3 岡本太郎『今日の芸術』光文社文庫 174頁



(2008/7/27 upload)

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