二つの「美」について(覚え書きとして)



 三年前、東日本大震災のあの恐怖と混乱の日々のなかで、私は二つの種類の「美」を目撃した。ひとつは被災直後にテレビの画面を通して見た遠洋より迫り来る巨大な津波の「美しい」映像である。そしていまひとつは、自らの身を賭して原発事故の収拾や人命救助へと向かう人々や、あるいは被災した人たちを思いやり、手と手をたずさえ共に難局を乗り越えようとする人と人のこころの繋がりの「美しい」姿である。
 元来、この二つはまったく異なる種類のものである。しかしどちらも同じ「美しい」という言葉をもって形容される。片や全ての悲劇を引き起こした破壊の元凶であり、片やその惨状のなかでの唯一の希望である。自然と人間、有形と無形、まるで正反対の二つのものに対する形容が、なぜ同じ「美しい」なのか? そもそも「美しさ」とはなにか?

 もとより「美」は巨大な謎である。その答えが簡単に導き出せるとも思えない。いやそれは、一生かかって取り組んだとしても果たして本当に答えに辿り着けるかわからないほどの深遠なテーマだ。
 その遥かなる道への小さな一歩になるかはわからないが、ここでは上に挙げた二つの「美しさ」を手掛かりに、「美」についての考察を試みたいと思う。
 せめて現在という地点における暫定的な思考の記録となれば本望である。



●「絶対的な美」

 まずはじめに、遠洋より迫り来る巨大津波の「美しさ」について考える。
 それが引き起こすであろう破滅的な悲劇が予測できながらも、海原を堆く隆起させ押し寄せる巨大津波の姿に「美しさ」を感じてしまったとき、その感情を正当化できるものはこの世には存在しない。それはただ「美しいから、美しい」と言うより他にはどうにも説明できぬものであり、弁解のしようのないものなのである。

 つまりこの「美」は「絶対的な美」であると言える。なぜならば、その「美しさ」を相対化させるものが存在しないからだ。
 「美しい津波」に対して、「美しくない津波」や「醜い津波」といったものを想定しても意味がない。それは比較の問題ではないのだ。ゆえに、その「美しさ」の度合いをはかる尺度となるものも存在しない。その「美しさ」は、ただそれだけで単独に屹立して「美しい」のである。それが「美しい」ことになにか理由があるわけではなく、「美しさ」の優劣を比較すべきなにかが他にあるわけでもないのだ。
 つまりその「美しさ」は、この世のあらゆる価値基準を超えている。「正否」も、「善悪」も、あるいは「好悪」の感情すら超えたところで、それはどうしようもなく、ただ「美しい」だけなのだ。

 当然のように、それは人の世の倫理的な価値観とは衝突する。私はあの日、勤め先のテレビであの巨大津波の威容を目にしたときに思わず自分が「美しい」と感じてしまった記憶を、未だに胸がざわつくような後ろめたさを伴わずには振り返ることができない。つまり「美しい」と感じたことが、心の傷にさえなっているのである。それは、この「美」が個人の意思を遥かに超えたところで存在するものであることを裏打ちしている。

 しかしたとえその「美」が人の意思を超えた超越的なものであったとしても、それを「美しい」と感じること自体は、きわめて個人的な体験なのである。その「美しさ」を相対化できる尺度や理由を外部に持たないということは、その体験を他者と共有できないことを意味するからだ。
 言ってみればそれは宗教的な体験に似ているのかもしれない。「神」と自分の一対一の関係のように、その体験のなかには自分と対象の二者以外、なにものも存在しないのだ。



●「相対的な美」

 巨大津波の「美」がこの世の価値基準では説明不可能なものであるならば、それに対してあの震災の日々のなかで目撃したもうひとつの美、即ち人と人の心の繋がりや自己犠牲の精神の「美しさ」といったものは、それが「美しい」理由を他者に説明することが可能なものである。つまりその「美しさ」を相対化する理由や尺度が外部に存在するのだ。
 巨大津波の美を「絶対的な美」とするならば、この種の美は「相対的な美」と定義することができるだろう。

 人間の善性の美しさを「相対的」などと言うと異論が出そうだが、その「美しさ」の価値は、時代や場所によって変わりうるものなのである。
 たとえば生存競争の苛烈な社会においては、利他的精神はむしろ嘲笑の的にもなりかねない。日本社会においてもバブルの頃を振り返れば、思い当たる節があるはずだ。逆に先の震災や戦時下などの非常時の社会では、連帯や自己犠牲の精神が大いに尊ばれる。忠臣蔵の忠義心が「美しい」のはその舞台が江戸時代だからであり、同じことを現代の社会で行えば、それはただの凶行にしかならないだろう。同時代の事象にしても、たとえば自爆テロは味方から見れば英雄的な「美しい」行為なのかもしれないが、攻撃される側やその価値観を共有しないものから見れば、許しがたい蛮行以外のなにものでもないのである。

 つまりその「美しい」という感覚は、単なる個人の内的な体験にとどまらず、社会的な価値をも反映しているのである。「美しさ」を価値づける外部基準、すなわち社会的な要因が変化すれば、それを「美しい」と感じる個人の内的感情も変化するのだ。
 「美しさ」の感覚に影響を与える社会的な価値としてまず思い付くのは金銭的な価値だろう。宝石や美術品などはこれに当たる。美しいから価格が高いのか、価格が高いから美しく見えるのか、その問題はそれだけでひとつの大問題になってしまうのでここではひとまず措くが、少なくとも希少性や金銭的な価値(=社会的な価値)は、その「美しさ」を外的に担保するものにはなるはずである。それまで「美しい」と思って見ていた宝石や美術品が、偽物だと知らされたとたんに「美しく見えなくなる」といったことが起こりうるのは、我々の審美眼が外的な要因に少なからず影響を受けているからだろう。
 では、人の心や行為の美しさといったものはどうか。多くの場合、それは社会的な基準に基づく「正しさ」や「善さ」と結びついているように思われる。非常時の社会で自己犠牲や利他的精神が「美しい」とされるのは、それが共同体を維持していくために必要とされる「正しい」行為として機能するからだろう。いくら自己犠牲の精神を発揮しても、その行為が社会に対して災厄をもたらすようなものならば、誰もそれを「美しい」とは言わないに違いない。つまりその「美しさ」は、社会にとって価値があるからこそ、社会的(客観的)にも「美しい」とされるのだ。

 しかし同時に考えなければならないのは、いくらその「美しさ」の価値が社会的な要因によって左右されると言っても、「美しい」という感情自体は最終的には個人の主観に因るものだということである。社会的に「美しい」と規定されているものを、自分は「美しいとは感じない」といったことも当然起こりうるのだ。
 そしてここが重要なことなのであるが、社会的に「美しい」とされているものを自分が「美しい」と感じなかったとしても、その判断は誤りだとは言えないのである。たとえ自分以外のすべての人間が「美しい」と判断するものを自分が「美しくない」と感じたとしても、その感情自体を「間違っている」と言うことは誰にもできないのだ。(「(美的判断の)センスがない!」という非難ならば受けるかもしれないが、その非難は「美しい/美しくない」と感じた感情自体を否定するものではない。)
 これが「美しい」が、「正しい」や「善い」と大きく異なる点なのである。客観的に「正しい」とされていることを「正しくない」と感じたり、「善い」とされていることを「善くない」と思うならば、そう考える論理的な根拠を示さない限り、その感情は客観的には「間違っている」と断じられうる。なぜならば「正しい」や「善い」には、それが「正しい」「善い」とされるべき論理が存在するはずだからだ。もしそれを「正しくない」「善くない」と感じるならば、その根拠とされている論理を否定してみせなければならない。それができない限りは、自分がどんなに「そう感じた」と主張しようと、その判断は「間違っている」とされても仕方がないのである。
 つまり「美しい」という価値判断に比べて、「正しい」や「善い」の判断の根拠は、より客観的なコンセンサスに重きを置いていると考えられるのだ。それに対して「美しい」の最終判断の権限は、個人の主観に委ねられているのである。つまり「正しい」や「善い」は、「美しい」に比べてより社会的な価値観であると言える。

 そう考えてみると、「美しい」という価値観はある意味ではとても中途半端なものなのだ。それは社会的なものであると同時に個人的なものなのである。
 この二面性が「美しい」という感情をより複雑なものにしていると考えられる。



●「美」の政治性

 時や場所に応じた価値の変動性に加え、「相対的な美」のもう一つの特徴として挙げられるのは、その「美しさ」の度合いを相対化させる尺度が存在することである。すなわちその「美しい」に対して、それに対応したかたちで「美しくない」または「醜い」といった状態も存在することになる。
 それは客観的な「美しさ」をはかるための基準として機能する。ゆえに「絶対的な美」とは異なり、「相対的な美」は他者と共有可能なもの(客観的なコンセンサスの得られるもの)にもなりうるのだ。
 しかしそれと同時に「醜い」という感情は、「美しい」以上に個人の身体に根差した感覚でもある。それはおそらく「醜さ」が、死や老いのイメージと結び付いているためだろう。つまりそれは個人の生存欲求とも密接な関わりを持っているのである。非衛生な環境や異常な状態にある人間の肉体などが示す「醜さ」は、条件反射的に生命や健康へのリスクを人に思い起こさせる。その忌避の感覚は、ヒトの生存本能に根ざしたものだと言ってよいだろう。

 このことは「美しさ」がその二面性とともに、社会的な規範として大きな力を持ちうることの説明にもなるように思われる。つまり社会的な価値基準であるのと同時にそれが身体に根ざした個人の内的な感覚でもあることによって、「美醜」の感覚は「正否」や「善悪」以上に、より強く人を行動へと導く力を持つと考えられるからだ。
 「正否」や「善悪」の価値観が、ともすれば規律から外れることを抑制する制御的な機能を主とするのに対し、「美醜」の感覚にはもっと人を自発的なアクションに駆り立てるような能動性が感じられる。「正否」や「善悪」にはそれを成り立たせている論理が存在するが、論理の判断には考察と検証が必要なため時間がかかる。それに対して「美しい/醜い」の判断は、その最終決定権が個人の主観にあるため、直感によって瞬間的になされる。ゆえにそれは論理を飛び越えて人を行動へと向かわせる力を有する。
 そのため「美醜」の価値基準が社会的なものになったとき、「正否」や「善悪」の検証過程をスキップして、短時間で多くの人間を“自発的に”一定方向へと向かわせることも可能になる。思うに、これは「種」としての生存本能にも適っているのではないだろうか。共同体の衰亡が個人の生命を左右するとき、人は共同体が生き残るための最善の行動を“共同体として”思考するのではないか。
 あの震災直後に自分が経験したのも、まさにその感覚だった。「国が亡びる」という恐怖のなか、「わたし」を規定する枠組みが拡張し、「自分」と「日本」が意識のなかで重なって思考し始めたのだ。
 自分の生命が共同体の運命に託されているとき、なによりも人は共同体として「正しい」行動をこそ取ろうとするだろう。しかし多くの人間をより短い時間で一定方向に向かわせるためには理詰めの「正しさ」だけでは間に合わないかもしれない。議論をしている暇などないのだ。そのようなときに「美醜」の価値観は「共同体の〈自我〉」として自ずと浮かび上がって来るのではないだろうか。確かに思い返せば、あの震災直後の恐怖と混乱の日々のなかで、「日本」を救うことにプラスになると思われる互助や献身の姿は眩いほどに「美しいもの」として目に映ったし、逆に周囲の足を引っ張るような自分勝手な言動は心底「醜いもの」に見えたのだった。
 つまりそれは優れて社会的な規範であり、かつ同時に個人の内的感覚でもあるのだ。

 しかし、感情や直感に左右される行動は、理性や知性の欠如を生む。さらに、その力は多分に政治的なものでもある。論理の欠落の隙を突いて、大衆の行動の意図的な制御に「美しさ」の概念を利用するものも当然出てくるだろう。
 実際に「美醜」の価値観は、古くから社会の形成に関わってきた。階級社会において貴族たちは、非支配層の「醜さ」に比した自分たちの「美しさ」を差別の正統性の証と見做し、逆に階級闘争においては、被支配層は打ち倒すべき支配層を「醜いブルジョアジー」としてカリカチュアする。敵対する集団の「醜さ」を強調し味方の士気を高めるのは集団戦における常套手段だろう。国家間の戦争における敵国民の「醜い」イメージに対する揶揄と自国民及び自国の軍隊の「美しさ」の喧伝は言うまでもない。

 つまり「美しさ」の概念が政治的に利用されるとき、「美醜」の価値観はその美意識を基準にして、ある集団を「我ら」と「奴ら」に二分させる力を発揮するのだ。
 このことは「美醜」の概念が集団を結束させることに効果するだけではなく、差別や排外主義を生みうることをも意味している。
 「美しさ」を尊び、それを模範にしてその高みを目指すこと自体は悪いことではない。大方の価値基準に照らし合わせても、それは「善いこと」であり、そのような状態自体が「美しいもの」なのだろう。
 しかし「美しさ」への遵奉は、行為としては高度かつ曖昧なものである。それに比べて「醜さ」への嫌悪は、その直情性からアクションとしてもより明快で、特に高度な知識や技術、または努力を必要としない。ゆえに「美しさ」の概念が政治的に利用されたとき、その効果は「美しさ」への遵奉というプラスのベクトルだけではなく、得てして「醜いもの」への差別・排斥といった負のかたちで顕れることになるのだ。

 震災以後にこの国に起こった出来事のなかでも耳目を集めた社会的な現象として、ヘイトスピーチというものがある。在留する外国籍の人々の排斥を叫ぶデモと、そのデモを罵倒する人々たちによる対立の異様な光景は、かつて見慣れぬものとして震災以後のこの国の「空気」の変化をよく表していた。
 ここで注目すべきなのは在留外国人を排斥しようとする人々も、それに対抗して彼らを罵る人々も、その行動倫理の裏側には同じ「美しい日本」、あるいは「美しい日本人」というイメージが透けて見えることである。在留外国人を排斥しようとする人たちは彼ら自身の考える「美しい日本」を乱す夾雑物としての非日本人を除外しようと排斥運動をするのだろうし、ヘイトスピーチをヘイトする人たちは、彼ら自身が考える「美しい日本人」のイメージを汚すものとして差別的なデモをする人々を「(同じ日本人として)恥を知れ!」と罵倒するのだろう。
 つまり事の是非は別にして、彼らの倫理を支える美意識は同じなのである。もちろん公共の場で激しく罵りあう彼らの姿は「美しい日本」や「美しい日本人」のイメージからは遠くかけ離れた、むしろ真逆のものである。いったいなぜこのようなことが起こるのか。

 そもそも「美しさ」の本質は、その他者性にこそある。それは外部に「見出されるもの」なのだ。もちろん「美しさ」を相対化させる基準があるならば、その基準に照らしあわせて自分自身の状態を「美しい」と認識することは可能となる。しかしそのとき自分自身のなかに見出す「美しさ」とは、すなわち自身のなかの他者性なのだ。つまりそこには対象への距離感がある。
 もし「美しさ」と「自分自身」を同一化させ、その「美しい自分」を他者に誇るのであれば、少なくともその状態自体は「美しくない」という矛盾が生じる。そこでは「美しい」という概念の本質が捩れ、歪なかたちになっているからだ。
 「自分自身」と「美しさ」のあいだに距離感を見出せるならば、「美しさ」は目指すべき望ましき状態として機能するだろう。つまりベクトルは正の方向へと向かう。しかし「美しさ」が自己同一化すると、「美しさ」との距離は失われ、それに向かうプラスのベクトルは作動しなくなる。行き場を失った力が「醜さ」の排斥といったマイナスの方向で噴出するのは、ある意味では必然なのである。

 「美醜」の概念が政治利用され、ある社会集団が構成員の結束をはかるため「美しさ」を自己の定義とするとき、その集団内において「美しさ」は必然的に構成員の均質化と異端の排除へと向けて機能する。そこで起こる例外者としての「醜いもの」に対する嫌悪の感覚は、教室内のいじめからアウシュビッツにいたるまで広く通底するものである。言ってみればそれは全し白き布に付着した黒き沁みを厭うような「嫌悪感」なのだ。
 「憎しみ」を生む原因となるものは、現状への不満や恐怖や不安から来る緊張なのかもしれない。しかし「美醜」の概念は、その憎しみに論理を超えた吐け口を与えうる。「美しさ」が、あたかも社会的な「正しさ」や「善」を背後に担っていると錯覚させながらその非論理的な跳躍力を発揮するとき、それが人の理性を崩壊させ巨大な悲劇をも生みうることは、歴史を振り返るならばその事例は枚挙にいとまがない。



●人は巨大津波の「美しさ」に何を見るのか?

 最後に、ふたたび巨大津波の「美しさ」に戻る。
 「相対的な美」がその美意識を基準に「我ら/奴ら」の構図で人を結束、敵対させる機能を果たすのに対し、「絶対的な美」にはそのような力はない。なぜならば「絶対的な美」は個人的な体験に終始するからだ。ゆえにそれは決して社会的なものにはなりえない。

 自分はそもそも「芸術」とは、人がこの「絶対的な美」を志向することによって生まれたものなのではないかと考えるのだが、しかしそれがそのまま「芸術」の一般的な定義に当て嵌まるわけではない。近年はとくに、時代の流れに敏感な現代芸術の最先端の動向ほど、「絶対的な美」への探究よりも、むしろ共同体にとってより善き方向を目指す「相対的な美」への志向のほうが、傾向としては主流になっているように思われる。
 「絶対的な美」への探求と社会的な有用性への志向は一人の作家や一つの作品の内において同居しうると自分は考えるが(「作品」も人間も、そう単純なものではないと考えるため)、しかし全体的な傾向として、今日の芸術の志向がその後者へと目立ったかたちでシフトしていくことにも、一定の理はあるのだと理解する。なぜならば「絶対的な美」を追究した結果が、大災害を引き起こす巨大津波であったり、あるいは崩れ落ちるツインタワーであったり、はたまた立ち上る巨大なキノコ雲であったりするならば、そこにはただ絶望しか残らないからだ。数々の挫折を経た結果、世の中の動きに敏感であればあるほど、最終的に社会をより善き方向へと導くことを前提とした「相対的な美(社会的に有用なもの)」に「芸術」の志向が向かうのも、ある意味では当然のことなのかもしれない。

 しかしそれと同時に、人が「絶対的な美」に魅了されることと、その「謎」に向けての飽くなき探究心は、決して絶えることはないだろうと考えるのである。なぜならば、そこには「この世界」や「このわたし」の存在の秘密が隠されているように思われるからだ。その巨大な「謎」に引き付けられ、それを追い求めてしまうのは、人として「この世界」に生まれた宿命(あるいは呪い)なのではないだろうか。
 そして「絶対的な美」に対峙するとき、人はあらゆる帰属集団を離れ、一人の「人間」としてそれと向き合うしかないのである。つまり「絶対的な美」は、人を一個の「人間」へと還元する。
 どのような時代においても、どのような社会においても、時に人はただ一個の「人間」へと立ち返る瞬間が必要なのではないか。なぜかと言えば、それが「人間」の定義だからだ。
 我々が巨大津波の「美しさ」に見るのは、まさにそのことなのではないだろうか。




(2014/6/21 upload)

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