『ぐるりのこと。』に見るコミュニケーション論



 先日、橋口亮輔監督の映画『ぐるりのこと。』のDVDを借りて見た。評判の高い映画であることは知っていたが「夫婦の絆」をテーマにした作品だと聞いていたので、敬遠して今まで見ていなかったのだ。
 果たして実際に見てみると素晴らしくよくできた作品で、えらい感動してしまった。2008年公開の既に高い評価を得ている映画だけに何かを論じるにはずいぶんと時期外れな感じもするが、最近自分が考えていることに繋がるテーマを孕んでいるようにも思われたので、そのことについて書いてみたいと思う。

(※以下、ストーリーの核心に触れまくっているので映画を未見の方はご注意ください。)




1 「言葉」で伝えること、伝わるもの


 『ぐるりのこと。』の主人公は結婚したての若夫婦。しっかりもので出版社に勤務している翔子。バイト暮らしで女と見れば口説きたがるフワフワしたカナオ。二人は学生時代からくっついたり離れたりを繰り返していたカップルだが、翔子の妊娠を機に三十歳で結婚。物語が始まる1993年の冬は、二人がまだ結婚したての頃である。
 その半年後、性格の不一致から二人の関係には既に齟齬が出始めている。なんでも厳密に決めたがる翔子とそれを嫌うカナオ。翔子はフワフワしたカナオに時間を守らせようと門限を定め、夫婦の営みを週三日と決めて「する日」をカレンダーに書き込んでいる。カナオはそれを窮屈に思っていてなかなか守れない。

 ある夜、「する日」に門限を破って帰って来たカナオを翔子は詰る。でも険悪な態度のまま「決めたことはちゃんとしよう」と営みに誘う翔子に対して今度はカナオが「すればいいと思ってるんだろ」と憤る。
 このとき二人が繰り広げる会話は、両者の性格やコミュニケーションに関する考え方の違いをよく表していてたいへん面白い。
 夫婦の営みの日すらも細かく予定を組み、まるで役人のような態度で「決めたのだからするのは当たり前」と迫る翔子に対して、カナオは「料理」の喩えをする。料理というのは食べる人のことを思って美味しくなるように手をかけて調理し、見た目が良くなるように器に盛って出すそのもてなしの心こそが重要だと言うのである。翔子の夫婦の営みに対する態度は、まるでご飯なんてお腹に入ればみんな一緒じゃないかと紙皿に入れて差し出すようなものだと。
 しかし翔子にはカナオの言っていることが理解できない。代わりに彼女は「信号機」の喩えをする。誰が決めたか知らないけど信号機はみんな守ってる。だからカナオも決められたことは守りましょうと言うのである。
 二人の話は見事なまでに噛み合っていない。

 物語が進行していくうちに徐々に明らかになっていくのだが、二人の性格の違いにはそれぞれの「逃げた父親」の影が色濃く反映している。
 翔子の父親は元プロ野球選手。おそらく活躍した選手だったのだろうが、翔子たちを捨て愛人と共に失踪している。翔子の家族における父親の「失踪」の大きさは、翔子の母や兄が未だ彼にとらわれ続けている描写を通して仄めかされている。
 翔子が自分たち夫婦の関係を自分の両親と重ねているであろうことは想像できる。映画の冒頭でカナオとの結婚について翔子は「女で苦労することはわかってる」と言いながらも「でも私がしっかりしてれば大丈夫」と自信ありげに語っている。
 つまり翔子がやや度を越した厳密さで夫婦間のルールを定め、カナオに対して厳格にそれを守らせようとするのは「両親と同じ失敗を繰り返してはならない」という思いから来ているのだと考えられるのである。穿った見方をすれば、女にだらしないカナオとの結婚を決意したのも、父親が「女と逃げた」ことへの反撥という面もあったのかもしれない。つまり両親の夫婦仲は悲惨なかたちで破局したが、カナオとの結婚生活を自分が成功させることによって、そのショックを乗り越えられると心のどこかで考えたのではないだろうか。門限や「する日」の厳格化に彼女が拘るのは、そのような背景があるからなのである。
 そして「信号機」の喩えは、彼女のデジタル的なものの考え方と思想を表している。翔子の思考では、信号を守れば交通事故が避けられるように、ルールを守ることによって夫婦間の問題も回避可能になるはずなのである。週三日、決められた日に夫婦の営みを行うことは、彼女にとって夫婦間の関係を壊さないための重要な「努力」なのだ。

 それに対してカナオは、明文化されたルールのようなものよりも、むしろ目に見えない感情のやり取りのほうを重視するタイプなのである。
 物語の後半になってあきらかにされるのだが、彼は父親が首を吊って自殺したという過去を持っている。カナオは理由も明かさぬまま自殺した父親を「逃げた」と断じて今でも許していない。そして父親が死んだときに自分が「泣けなかった」という経験から、目に見えるわかりやすい感情の表出に対して疑念を抱くようになっている。
 偽ることも可能な直截的な感情表現を信じないカナオが重視するのは、非言語的なコミュニケーションや無意識的な感情表出である。「料理」の喩えはそのことを言っていたのだ。カナオにとってみれば「週三日夫婦の営みをする=仲の良い安定した夫婦」といった上辺だけの記号的な関係こそが、もっとも欺瞞に満ちたものなのだろう。彼はむしろその行為のなかで交わされるおもいやりや心配りといった目には見えない気持ちの通じ合いこそを重視するのである。だからこそなんでも「ルール」にしてしまう翔子に、彼は反発するのだ。
 結局二人はわかりあえないまま夫婦の営みをすることになり、考え方の相違を象徴するように散々な結果でそれを終える。

 それでも物語の序盤では、二人の未来に明る兆しを感じさせる場面も登場する。幼い甥っ子をあやすカナオを見て微笑む翔子。お腹のなかで胎児が動いたと喜ぶ翔子を見て目を細めるカナオ。そのまま行けば時間とともに二人の間の齟齬は自然と埋まっていたのかもしれない。
 しかし生まれた子どもの死という悲しい出来事が、二人の間の距離をさらに広げてしまう。子どもの死のショックから翔子は徐々に自分に自信を失っていき、心を病んでいく。そして彼女は再度妊娠した二人目の子どもをカナオには内緒で中絶してしまう。その罪の意識からさらに心の病を進行させ、やがては仕事を辞め、心療内科へと通うようになり、暗示的にではあるが自殺未遂も仄めかされる。
 その間、カナオは先輩から斡旋された法廷画家の仕事を続けながら傍で翔子を支え続けるのだが、翔子の心の病が進行していくのを止められない。彼は他人に対する細やかな気遣いのできる人間なのだが、それでも翔子の二度目の妊娠と中絶という大きな出来事を見落としてしまう。翔子はカナオが気付かないことでさらに傷付き、いっそう心を病んでいく。

 人の心のなかのことなので本来ならば決め付けてはいけないのだろうが、物語なので敢えて単純化して考えるならば、翔子が心を病んだ一因はカナオにもある。カナオは子どもが生まれたときも、死んだときも、嬉しいとか悲しいといった感情表現を一切しなかったのだ。本当はそれを喜び、悲しんでいたのだが、あからさまな感情表現を嫌うカナオはその感情を翔子にすら気付かせなかったのだろう。結果的にそのことが子どもを喪った悲しみを翔子が自分一人で抱え込んでしまう要因になったのであろうことは想像がつく。彼女は共に暮らすカナオの感情が読み取れない困惑から、「世界」に対する距離を見失って行ったのだ。
 翔子が二人目の子どもをカナオに黙って中絶した理由は、映画のなかでは明らかにされない。一人目の子どもを失った彼女は弱気になっていたのかもしれない。いま子どもを産んでもまた死なせてしまうのではないかという不安が、中絶の原因になったと考えることはできる。
 しかし、こういう考え方もできるだろう。彼女はカナオを試したのではないか。あるいはそれは感情を伝えてくれないカナオに対する「仕返し」だったのではないか。どちらにせよそれはカナオに向けたシグナルだったのである。しかし結果的にカナオがそれに気付かなかったことで、翔子の絶望はより深くなってしまう。

 正論を言うならば、カナオは翔子にわかるように自分の感情を伝えるべきであったし、翔子は妊娠と中絶をカナオに知らせるべきだったのだろう。
 しかし難しいのは、カナオにとって嬉しいときに「嬉しい」とわざわざ口に出して言ったり、悲しいときに悲しそうな顔をして泣いたりすることは「信用できない」ものなのである。彼自身が敢えてそのような態度を取ることは、そのこと自体が彼自身の感情を偽ることにもなってしまう。
 そして翔子も妊娠や中絶を夫に知らせるべきであったのは確かに当然ではあるのだが、しかしそのとき彼女にとって一番重要だったのは、自分の気持ちをカナオに気付いてもらうことだったのだ。何も言わずとも自分のことをしっかり理解してくれているというその確証をこそが彼女は欲しかったのではないか。つまり彼女にとってもはっきりとわかるように言葉でそのことを知らせなかったのにはそれなりの意味があったのである。

 最終的に翔子は、台風の接近するある嵐の夜、溜め込んだ感情をついに爆発させる。制御不能となった彼女はカナオに掴みかかり、隣人を罵倒し、地団太を踏み鳴らしてやり場のない感情の暴走に苦しむ。結果的にはその後二人はようやく気持ちを通い合わせることができて、関係も修復へと向かうのだが、この一連のシーンは映画における最大の山場になっている。
 翔子が感情を爆発させたきっかけは、カナオが家のなかにいた蜘蛛を買ってきたプラモデルの箱で潰したことだった。逆上して掴みかかってくる翔子に対してカナオは「ゴメンゴメン、わかったわかった」と笑いながら諫めようとするのだが、「全然わかってない!」と翔子はさらに激高する。
 この台詞は重要である。カナオは「家グモは善いものだから殺してはいけない」という迷信を破ったためそれを信じている翔子が怒っているのだと思っているのだが、翔子の怒りは「迷信を破ったこと」ではなく、その縁起を自分が気にしていることをカナオが忘れていたことに対して向けられているのである。つまり翔子の突然の逆上は、そのときまでに積もり積もった「気持ちが通じない」ことへの苛立ちが堰を切った結果だったのだ。
 感情を爆発させて暴れたあと、糸が切れたようにしゃがみこんだ翔子は泣きじゃくりながら「もっとうまくやりたかったのに、できなかった」、「気持ちが通じ合ってるかわからない」、「離れていくのがわかっているのに、どうしていいのかわからない」と吐き出すように自分の感情を吐露する。「どうしてわたしと一緒にいるの?」という問いに、自身の感情や気持ちを言葉にするのが苦手なはずのカナオが「好きだから一緒にいたいと思ってる」、「ちゃんとせんでもいいから一緒におってくれ」と不器用ながらも誠実に答えるシーンは、おそらく映画中でももっとも感動的な場面のひとつだろう。
 しかしこのシーンにおいて真に重要な台詞は、その後にある。なおも「ちゃんとしたかったの、でもちゃんとできなくて・・・」と泣きじゃくる翔子に対して、カナオは少し間をおいて「ごめんな・・・ごめん」と呟く。この一言を聞いて翔子はようやく泣きやみ、自分からも「ごめんね・・・ごめん」と返答する。

 瞬間を切り取るならば、ここでカナオが「ごめんな」と呟いた瞬間こそが、二人の関係が修復へと向かう分岐点となっている。この一言をきっかけにそれまで行き違っていた二人の気持ちがようやく通じ合い、映画の終盤に向けて翔子は心と体の健康を取り戻していくのだ。
 しかし言葉の上だけ眺めれば、ここでのやり取りにおけるカナオの「ごめんな」は意味として繋がっていないようにも見える。その直前までのやり取りでは、泣きじゃくりながら感情を吐露する翔子に対して、カナオはそれぞれの言葉に正確に対応する応答をしている。しかし翔子の「ちゃんとできなくて・・・」と次のカナオの「ごめんな」の呟きのあいだには飛躍がある。
 この二つの台詞の間にある「飛躍」は、カナオが翔子の気持ちに気付けたことを示している。彼は翔子が心を病んでしまった一因に自分自身の存在や言動があることを悟り、二人がすれ違ってきた時間のすべてに対し反省の意を込めて「ごめん」と謝ったのだ。翔子もそのことを理解したからこそ、自分からも「ごめんね」と謝り返したのだろう。
 つまり二つの台詞の間にある飛躍は、その飛躍自体が相手の気持ちを理解したとことを伝える役割を果たしているのである。言わば言葉を使った非言語的なコミュニケーションなのだ。

 カナオと翔子の心が通じ合えるきっかけとなった言葉が「ごめん」であったことは暗示的である。それは翔子を激高させるきっかけとなった先にカナオが言った「ゴメンゴメン」という台詞と対応しているのだ。
 先の「ゴメンゴメン」は、言葉だけ取り上げれば文脈的にも特に違和感のない使われ方をしている。翔子が厭っていることを忘れて家グモを殺してしまい、逆上して掴みかかってくる翔子に対しての謝罪の言葉である。
 しかしそれはその場を取り繕うための上辺だけの言葉であって、真の意味での謝罪の気持ちは込められてはいない。カナオが同時に言う「わかったわかった」に対して翔子が「全然わかってない!」とさらに激高するのも同じ理由からである。
 同じ言葉が別の意味を伝えるということで言えば、二人の気持ちが通じ合えた後、カナオの冗談に翔子が初めて笑いを取り戻すシーンでカナオが言う「バカって言うな」という台詞があるのだが、実はこの台詞は物語の前半で二人の気持ちが絶望的に離れていることを示すシーンで使われる台詞と同じなのである。これなどはあきらかにコミュニケーションにおける言葉の多義性を示すための意図的な演出だろう。

 つまりこういうことなのではないか。ひととひととの関係において「言葉に出して伝えること」はときに重大な意味を持つ。しかしそれは決して「言えばいい」ということではない。言葉はコミュニケーションにおいて道具に過ぎず、重要なのはその道具を使って相手に伝える(伝わる)内容のほうなのである。
 「会話」が単に言葉の字義上の意味の交換ではないように、ひととひととの間のコミュニケーションは複雑多様かつ繊細な方法で成り立っている。我々は普段意識せずに行っているが、そもそも他者に自分の意思や感情を伝達できるということは、言ってみれば奇跡のようなものなのだ。
 そのことを忘れて意味上の表象としての「言葉」だけを無批判に信じ込み、伝えるべき相手を無視して一方向的に使われる言葉はどこにも届かない。いやそれだけではなく、引いては「言葉」の死すらも招きかねない危険な行為である。

 それを象徴するような人物として、カナオの法廷画家の仕事の上司にあたる諸井という記者が登場する。彼は癖のある人間が揃った裁判所担当の報道関係者のなかで自分だけはまともだよとばかりにいつも調子よく陽気に振舞っているのだが、実は気持ちのこもっていない上辺だけの言葉をその場しのぎで振り撒いているだけの人物なのである。しかしそのおざなりなコミュニケーションを見透かされてしまい、結局誰からも相手にされなくなり、職場でも一人浮いてしまっている。
 他にもこの映画ではひととひととの関係におけるコミュニケーションの種々の有り様が丁寧に描かれているのだが、基本的に上辺だけの言葉や相手のことを考えていない一方的なコミュニケーションは不和や不信に繋がっている場合が多い。

 言葉を使ったコミュニケーションの不全ということで言えば、翔子が心を病んでいく過程として描かれるエピソードで、ひとつ強烈に印象に残るシーンがある。同僚の若い編集者が作家の文章を勝手に書き換えてしまった不手際を翔子が注意するのだが、経験の浅い相手にはそれがまったく伝わらない。逆に翔子が自分に無断で謝罪に行ったと怒りだし、呆然と立ち尽くす翔子を残しその場から立ち去ってしまう。
 どこの会社でも起こりそうなごく平凡なエピソードだが、それでもこの場面の不穏さは不気味である。このときのやり取りは、心を病み自信を失っていくなかで翔子が感じているであろう「言葉が相手に通じなくなる」という恐怖を示すのと同時に、いくら論理や道理を通しても相手が聞く耳を待たなければ何も伝わらないという言葉の無力性も象徴しているように思われる。

 映画は2001年7月で幕を閉じるが、その直後に発生する9・11テロや、それをきっかけに始まる巨大な憎しみと暴力の連鎖も、もとを辿れば「相手に言葉が通じなくなる」ような事態から始まっているのだろう。
 この物語は夫婦間のコミュニケーションにまつわる小さな話だが、そこで扱われている問題はより巨大なものをも照射しているように思われる。




2 「絵を描くこと」の意味


 人間が自分の感情や気持ちを表に出すとき、言葉以外にも様々な表現手段がある。この映画では、そのなかでも「絵を描くこと」が物語上大きな意味を担っている。

 もっとも目立つかたちで描かれているのは、翔子が絵を描くことを通して心の健康を取り戻していくエピソードだろう。
 翔子は心療内科の治療の一環としてあるお寺の女住職が主催する茶会へと通うようになる。やがて住職から本堂の天井画を依頼された翔子は、美大を卒業して以来描いていなかった絵を本格的に描き始める。
 翔子が主として描くのは身の周りの植物である。手本にする画家は伊藤若冲だ。若冲は江戸期の絵師のなかでも絵を描くにあたって絵手本ではなく身の周りの動植物の観察を特に重視した画家である。つまり翔子にとって「絵を描くこと」は、それまで彼女が気付かずにいた自分の周りに広がる自然(=非言語的な世界)に気付くことをも意味するのだ。
 そしてこの場合の「非言語的な世界」は、すなわちカナオ的な世界でもある(翔子が体験する「茶道」も、物語前半でカナオがする「料理におけるおもてなしの気持ち」の話に繋がっているのだと考えられる)。翔子は絵を描くことを通して、それまで気付かずにいたカナオの細やかな気遣い(非言語的コミュニケーション)にも気付けるようになり、世界の広がりを感じながら徐々に自己回復していくのだ。

 一方のカナオにとっても「絵を描くこと」は大きな意味を持っている。言葉や涙など恣意的に操作可能な感情表現全般を信じていないカナオだが、実は彼は絵に関しては「嘘がつけない」人間なのである。彼は口でならばいくらでも真顔で嘘八百を並べられるのだが、不動産業を営む翔子の兄からチラシのカットを頼まれた際に「そこらへんにテキトーに富士山とか描いとけ」と言われ「でもここから見えますかね?」と生真面目に返してしまうほど、こと絵に関しては「嘘がつけない」のだ(結局そのときは雲の上に富士山を乗せて描くという描写で対応した)。
 非言語的な感情の表出を重視するカナオにとって、絵を描くことは描画対象の「ほんとうの姿」を露わにする手段でもある。法廷画家の仕事は先輩から強引に押し付けられるようにして始めたのだが、その意味ではカナオには適職だったのかもしれない。彼はその職務において、可能な限り対象の隠された本性を描き出そうと努力しているように見える。

 それと同時に、法廷でカナオが描く絵は、彼がそれぞれの被告に対して抱く関心の程度も示している。例えば、つまらない私欲を理由に公金を横領した高級官僚たちは簡略的な丸チョンで戯画化して描かれる。つまりその程度の内容しかないということなのだろう。涙をぼろぼろ流して謝罪する被告には、その姿に嘘くさいもの感じたのかスケッチを上から鉛筆で塗りつぶしてしまう。売春事件の証人と被告が本音をむき出しに罵り合っている場面では、カナオは絵を描かずに頭の後ろで腕を組んで喜んで見物しているのだが、それは敢えて絵を描くことによって暴くべき隠されたものがそこにはないということを示しているのかもしれない。
 しかしそんなカナオが被告の隠された本性を的確に描き出した絵に対しても、上司の諸井からは「インパクトがないからもっと悪人面に描いて」という修正の指示が出されてしまう。それはマスコミで流される報道に求められるものは、人間の複雑な機微といったものではなく粗雑に単純化された善悪だけであるという痛烈な批判にもなっている。

 カナオが描く絵で法廷画のスケッチとはあきらかにタッチの違う描き込まれた鉛筆画が、映画のなかには三枚登場する。他の絵とは異なり自発的に描かれたこの三枚の絵は、カナオ自身の内面を表したものとして見ることができる。内面に抱いている感情や気持ちを表に出すこと嫌うカナオだが、絵を描くことで自分の心をかたちにしていたのだ。
 この三枚の鉛筆画は、物語上、それぞれに重要な意味を担っている。

 まず一枚目の絵は生まればかりの自分の娘を描いたスケッチである。引越しの際に偶然この絵を見付けた翔子は、初めてカナオが子どもが生まれたことを「喜んでいた」ことを知る。つまりこの絵を見るまでは、翔子には一緒に暮らしていながらカナオが子どもの誕生を喜んでいるかどうかすらもわからなかったのだ。翔子はカナオが自分に気持ちを伝えていなかったことを知ってショックを受け、いっそう心の病を進行させることになってしまう。幸福を描いたはずの絵が、結果的に二人を不幸へと導いてしまうのはなんとも皮肉である。
 二枚目の絵は、二人の気持ちが通い合うようになり翔子が回復していく過程で描かれる。疲れて机の上に突っ伏して眠ってしまった翔子の幸せそうな寝顔を、傍らでカナオがスケッチしたものだ。映画のなかで翔子の顔を描くカナオは、とくに目立った表情も見せず、タバコを吸いながら黙々とスケッチをしている。カナオの心情が台詞や表情といったかたちで示されることはないが、しかし我々は翔子の回復を喜びながら隣で静かに見守り続ける彼の優しさと愛情をその姿に見ることができる。出来上がった絵が翔子に見せられるかどうかは定かではないが、しかし図らずしも二人の気持ちが通じ合っていないことを露呈する結果となってしまった一枚目の絵に対し、この二枚目の絵は言葉には出さずとも二人の気持ちが通じ合っているその信頼の確かさを表しているように感じられる。

 そして三枚目の絵は、物語の最終盤、最後のクライマックスの場面で登場する。それは「逃げた」とされていた翔子の父親の顔を描いた絵である。
 失踪した夫が現在名古屋で暮らしており、しかも癌を患っていると知った翔子の母は、翔子に様子を見てくるよう依頼する。法廷画家の仕事で和歌山に出張の予定があったカナオは翔子と合流し、その対面に付き添う。そのとき翔子にも気付かれぬうちに描かれたという肖像画は、後日翔子の親類たちが集った身内の席で披露されることになる。
 カナオがどのような理由で翔子の父親の絵を描いたかは映画のなかでは明らかにされない。しかし物語上、この絵には大きな意味が籠められているように思う。
 カナオはこの絵を披露した際に、翔子の親類たちが「逃げた」翔子の父親を批判するなか、ただ一人彼を擁護する。妻の父親とは言え、十五年も前に失踪し、いまは離れた場所で他人として暮らす人間である。なぜカナオは彼を庇い、そしてなぜ彼の顔を絵に描こうと思ったのか?

 思うにこの三枚目の鉛筆画は、カナオが「逃げた」と断じて責め続けてきた自分の父親を許したということを示しているのではないだろうか。父親の死によって負った心の傷を彼は乗り越えたのである。
 つまりこの映画のなかで心の病から回復したのは翔子だけではないのだ。実は翔子の回復とともに、カナオも自分の心の傷を乗り越えているのである。翔子の回復過程は、カナオの回復過程でもあるのだ。気持ちが通じ合って以降、二人は互いを思いやり相手を理解することで、それぞれが抱えていた心の傷を癒していったのである。

 ちなみにこの翔子の父親を描いた絵が披露されるシーンの最後に、物語上最大の反転が起こる。翔子の母が実は裏切ったのは自分のほうで、失踪した夫はその裏切りを許すことができなくて出て行ったのだと告白するのだ。
 彼女は失踪した夫について「大きく振る舞ってたけど、気が小さくてまっすぐな人だから許せなかったんでしょ。そういうとこ、翔子とよく似てんのよ」と評したあと、突然カナオに向かって手を付き「翔子のこと、よろしくお願いします」と頭を下げる。驚いた顔でそれを見ていた翔子は、やがて堪えきれずに泣き出してしまう。
 このシーンで起こっていることは、実際に目で見えているもの以上に複雑な要素を孕んでいるように思われる。
 そもそも翔子の母は、なぜこのタイミングでカナオに対して頭を下げたのか。もちろんそこには心の病で苦しんでいた娘をこれまで支え続けてくれたことへの感謝の意味が含まれているのだろう。でもそれだけでは「なぜこのタイミングなのか」という疑問への説明にはならないのだ。しかも彼女は、言葉の上は過去へのお礼ではなく、今後のお願いというかたちで頭を下げているのである。
 その直前の台詞が「そういうとこ、翔子とよく似てんのよ」であったことは重要だろう。翔子の母は、自分の娘を自身の咎によって失踪させてしまった夫と重ねた上で、翔子をここまで裏切らず守ってきてくれたカナオに対し頭を下げているのである。つまり彼女はカナオに向かって頭を下げることを通して、かつての夫を現在彼女の代わりに支えてくれているこの場にはいない顔も知らぬ女性に対しても頭を下げているのだ。

 このときの翔子の驚きはいかほどだったのだろうか。「女と逃げた」とされていた父親をカナオに当て嵌め、夫婦の関係を維持していくために「自分こそがしっかりしなきゃ」と張り切り過ぎて失敗した翔子だったが、そもそも想定していたその構図自体が間違っていたのだ。カナオに向かって頭を下げる母の姿を見て、翔子は夫婦の関係において自分こそが守られるべき存在であったことに気付き、涙が止まらなくなるのである。
 カメラが寄っていき次第にアップになる翔子の泣き顔に、我々は彼女の胸のなかに溢れているであろう様々な想いの奔流を見ることができる。結婚当初は「やめなよあんなの」と言っていた母親の七年越しのカナオに対する評価の変化、苦しいなかで自分を支えてくれたカナオに対する思い、立場を逆転して見ることで新たな様相を帯びて見えてこれまでの結婚生活の記憶。

 この場面の最後は、カナオが描いた絵を穏やかな表情で見つめる翔子の母のカットで終了するのだが、このときそれが写真ではなく絵であることは大きな意味を持つ。つまり描かれた絵であるが故に、彼女はそこにかつての夫の現在の姿も、あるいはそれを描いたカナオの思いや人柄も同時に見ることができるからだ。
 言うまでもなく翔子の母はここで救われている。孫たちが誤って彼女が信仰していた「神様」の壺を割ってしまってもまったく動じなかったのは、自分の裏切りによって夫を損なってしまったという罪の意識から彼女が救われたことを意味しているのである。
 しかし彼女が救われたのは、ただ単にかつての夫が「現在は幸せに暮らしている」という情報を得たためだけではないだろう。自分の娘のなかにかつての夫の姿を認め、その娘が苦しみに陥っていたときに夫であるカナオが真摯に支え続けたことを見てきたからこそ、彼女自身の「救い」は訪れたのではないか。カナオを現在夫を支えてくれている見知らぬ女性と重ねて、その人にならば安心して夫を託せると、未練と罪の意識を払拭したのだろう。
 それは翔子の父親が幸せそうに生きている姿を見て、カナオが自分の父親の死によって負った心の傷を克服したであろうことと呼応している。つまり彼らは他者のなかに自分の姿を見て、他者の姿のなかに自分自身の救いを見付けたのである。

 絵を描くという行為の持つ意味は多様である。ときにはそれは意思の伝達手段となり、ときには自分自身の感情に出会うためツールとなる。言葉による表現に比べ、絵を描くことは一般的に表現のベクトルが多様かつ複雑なのである。
 カナオが三枚目の鉛筆画を誰に向けて描いたのかはわからない。しかし映画を見る我々はその絵に、他者に対する想像力が最終的には自分自身も救うという事実をも見ることができるのである。




3 ぐるり=「世界」のこと


 「ぐるりのこと」とは主人公たちの身の周りや、社会情勢なども含む彼らを取り巻く環境全体のことを指しているのだろう。つまり言葉を変えれば、「世界」のことである。

 この映画は1993年の冬から始まり2001年の夏で幕を閉じるが、その間、劇中に映し出される新聞の紙面やテレビの画面、あるいはカナオの仕事場である法廷のシーンなどを通して90年代に日本で起こった大事件が時代の背景として要所要所で登場する。
 特徴的なのはそれらが単なる背景ではなく、主人公たちの心情を映し出すものとしても機能していることだ。
 例えば翔子が自信を失って弱気になり徐々に心の闇に沈んでいく場面では、宇宙飛行士の向井千秋さんのニュースがテレビに映し出される。心が弱り自分自身の価値を見失っていく過程では、自分以外の人間すべてが輝いているように見えるものである。他者への劣等感が自身の無力感をさらに増強するのだ。女性としての努力と成功の象徴のような向井さんの映像は、自信喪失の念を深めていく翔子の胸中を表しているのである。

 あるいはカナオが法廷で目にする実在の事件をモチーフとした被告たちは、他者や「世界」への想像力を欠いて悪意に飲み込まれてしまった存在の象徴として見ることができる。
 例えば幼女誘拐殺人事件の被告や地下鉄毒ガス事件を傍聴する信者たちは、他者の欠落した世界を表しているのだろう。彼らにとって「世界」は完全に自閉しており、「外部」が存在していることにすら気付いていないかのようだ。
 小学生児童殺傷事件の被告は、極めて独善的で狭い視野からしか世界を見られない人間として登場する。彼は遺族への謝罪の気持ちがないのかと問われても「こっちが謝罪してもらいたい、世の中全部から」とうそぶく。
 物語のエンディング近くで、彼が傍聴席にいる遺族の一人に向かって「継母がァ! 本当の親でもないくせに悲しいふりしてんじゃねーよ!」と暴言を吐くシーンがある。カナオは公判中、罵られた母親が殺された娘のものと思しき縫いぐるみを握り締めながら、手首に巻いた包帯を震えながら押さえていた場面を目撃している。つまり彼女は自分の娘の不慮の死を心の底から怒り悲しみ、そのことによって自分自身を責め苛むほどに苦しんでいるのである。しかし他者への想像力を欠いた当の被告の短絡的な思考のなかでは「血の繋がっていない娘の死を悲しむこと」は偽善であり、それ以外の可能性は思い付きもしないのだ。彼には社会全体が嘘に塗れた誤魔化し合いにしか見えないのだが、その原因は彼自身の他者に対する想像力の欠如に由来しているのである。

 ここで重要なのは、これらの被告もまた、物語中の登場人物や、あるいはそれを見る我々と無縁の断絶した存在ではないということなのだ。
 例えば一見モンスターのようにも見える外部を喪失した狂信的な信者たちは、怪しげな宗教を信じているという点においてこの物語のなかでは翔子の母と繋がっている。もし彼女を取り巻く環境のなにかが違っていたら、彼女もまたこれらの信者たちと同じようになっていたのかもしれない。
 あるいは「人の心のなかは誰にもわからない」と感情の表出全般を疑うカナオのニヒリズムは、ともすれば世の中すべてを嘘臭いものとして否定する小学生児童殺傷事件の被告の幼稚な世界観にも繋がりかねない。それを見ている我々だって、自分自身が抱える問題を「社会のせい」にしようとした経験はあるだろう。実際に自分は、この映画に登場するあらゆるキャラクターのなかに、過去の自分の断片やそうなっていたかもしれない自分自身の姿を見ることができた。
 つまり、すべては地続きなのである。

 ところでこの映画では多くの重要なことが直接的に説明されるのではなく、さりげないかたちで間接的に示されるという手法が採られているが、なかでも重要なアイテムとして翔子とカナオが住む家にかけられたカレンダーが挙げられる。
 物語の冒頭、そのカレンダーには縦に並んだ×印が三列、びっしりと書き込まれている。それは翔子が付けた夫婦の営みを「する日」の印なのだ。その偏執さを感じさせる×の並びに、映画を見る我々は翔子の生真面目な性格と、円満な夫婦生活を維持するための彼女のやや常軌を逸した「努力」をそこに見るのである。夫婦の営みが「週三日」と耳で聞いてもそのままふーんと聞き流しかねないが、それをビジュアルで見せられることによって、翔子の性格や彼女が抱く強迫観念を、あるいはそこにカナオが感じているであろう息苦しさを、我々は一瞬のうちに把握することができるのである。
 物語のなかでは子どもの死以降、しばらくはカレンダーからその×印が消える。それは二人の心が離れ、翔子が心を病んでいく過程であり、その間夫婦のあいだに肉体関係がなくなっていたことをさりげなく示している。
 物語の終盤になり翔子が回復してくると、再び×印がカレンダーに表れるようになる。それは二人の間にふたたび夫婦の営みが再開されるようになったことを示すだけでなく、物語冒頭の偏執的な並びとは違って数が減り並びもランダムになった×印から、彼らにとってその行為が以前のような強迫観念的な「努力」の証ではなく、互いの合意の上で行われる自然な営みへと変化したということも読み取れるのである。

 そして翔子の回復後に再度現れたカレンダーの×印は、もうひとつの重要な事実を示している。それは頻度としては自然なかたちに変化したとは言え、相変わらず「する日」を律儀に×印でカレンダーに記入してしまうということは、実は翔子のいささか度を越した生真面目さは回復後も変わってないということなのだ。物語の前半と後半で翔子は文字通り人が変わったようにその印象を変えるのだが、翔子の中身は相変わらず以前の翔子のままであり、別に根本から人が変わってしまったというわけではないのである。

 では映画の前半と、苦しみからの回復を遂げた後の翔子では、いったい何が変わったのか?
 おそらくそれは、彼女の見る「世界」が変わったのだろう。カナオと共に生き、彼と心を通わせ、彼の見る「世界」を理解することによって、翔子の「世界」は広がったのだ。
 それはカナオも同じである。彼も翔子とともに生きることで、彼自身の「世界」への見方を広げたのだ。

 この映画から受け取ることのできる最大の思想は、「世界」の広さを感じるためには、他者への想像力が必要となるということではないだろうか。
 言葉を変えれば、他者への想像力こそが、我々が感じ取ることのできる「世界」の広さなのだ。

 そして「世界」が地続きであるならば、我々のほんの些細な日常のなかにも、この世界の行く末を左右するような大きなものが隠されているのかもしれない。




(2013/12/12 upload)

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