人はなぜ絵を描くのか? −「写実」についての私論



 景色がありましょう。景色の中に生きもの、例えば牛でも何でも描いてあるとするのです。それが絵では何時でもそこにいるでしょう。実際のものは、自然はそこにいないでしょう。その事の描けている絵と描けていない絵とあると思います。

(「没後30年 熊谷守一展」より)




 なぜ人は絵を描くのだろうか?
 そんな根源的な疑問へと真正面からぶち当たった気がした。
 先月、埼玉県立近代美術館で見た熊谷守一の没後30年記念展でのことだ。


 熊谷守一の絵について、俺はいままでさしたる関心を払っていなかった。なんだかノンビリしたデザイン的な絵画、といった程度の漠然とした印象しかなく、「熊谷守一」という名前を聞いてもその絵のイメージよりもむしろ著作のタイトルである『へたも絵のうち』というアフォリズムのほうが先に思い浮かぶような(しかも書名を知っているだけで、本自体は手に取ってみたことすらなかったのだが)、そんな薄ぅーい関心しか持っていなかった。
 それでも最近、美術館の常設展示などで幾点かその絵をポツポツと目にしているうちに、なんとはなしに興味が湧いてきた気もしてきた。相変わらず単純な色面の構成によるデザイン的な絵画という印象は拭えなかったが、それでもそんな単純な色彩と形のなかに、どこか「引っかかる」部分があるようにも感じられたのだ。

 そんな折、ちょうどよいタイミングで開かれた大規模な回顧展。「引っかかっていた」部分が多少でもクリアーになるといーなーなどと気軽な気持ちで出かけた俺は、これまで出会ったこともないほどの鮮烈な体験をすることになる。
 大規模な展覧会を機に関心の薄かった作家のそれまで気付いていなかった魅力に急に目覚めるといった経験はこれまでもしばしば体験してきたけれど、熊谷守一の場合、それが本当に極端だったのだ。
 あたかもだまし絵のなかから隠れた図柄があらわれたかのように、それが「見える」ようになった瞬間、いままで目に写っていたものの印象はガラリと変わった。こんなにも凄いものが隠されていたのかと、自分の目を疑ったほどだ。いやはや自分はなんと「見えていなかった」ことか!

 表面的なスタイルの変化こそ大きいけれど、熊谷の絵に向かう姿勢は初期から晩年まで揺らぐことなく一貫している。そこで感じるのは画布へとうつし取るべく「世界」を見つめるその揺らぎない「眼」だ。その「世界」をとらえようとする眼の強さは画学校時代から晩年に到るまで衰えることなく、終始一貫とした姿勢で持続されている。
 その眼の強さに気付くと同時に、デザイン的な平面構成にすぎないと思っていた彼の油絵が、実にナマナマしくも世界をとらえていることが、突如として見えてきた。水色の絵の具による平坦な色面に過ぎないと思っていた川が突然流れ出し、灰色の色面に過ぎなかった煙は風にたなびき、白絵具で出来た雪が積もった枝からやがて重みに耐えかね地面へと落ちるであろうその様までもが、ありありと感じられるようになる。こんなにも「リアル」な絵は、他に見たことがない! イッタイこれはナンナンダ?

 おそらくこれは、いやこれこそが、ほんとうの「写実」なのだ。ひょっとすると俺はいままで単に熊谷の絵が見えていなかっただけではなく、「写実」というもののほんとうの意味を理解していなかったのかもしれない。そんな自省へと追いやられるほど、熊谷の「写実」は衝撃だった。

 ほんとうの「写実」とは何か。それは冒頭に挙げた熊谷のコトバにその全てが言いあらわされている気がする。展覧会ではこのコトバの横には、草原で草を食む子牛の絵が掲げられていたのだが、その子牛はあきらかに「何時でもそこにいる」牛ではなかった。ゆっくりと草を食み、満足したらどこかへと歩み去っていく、そんな有り様まで確と感じさせる「写実」な牛だった。そんなことが絵の具とキャンバスだけで(それもこんなにもシンプルな色と形で!)表現できるなんて、それだけでもうオドロキだった。牛の毛の一本一本の艶まで描いたような絵画こそを「写実」だと思っていたオノレの無知っぷりに、イマサラながら呆れ果てた。

 そして思った。これはナンナンダロウ?と。
 なぜこんな所業が人の手によって可能なのか?
 いやそもそも、なぜ彼はこんなにも「写実」な絵を描くのか?
 「写実」とはいったい何なのか?
 そもそも、人はなぜ絵を描くのか?
 熊谷の絵の衝撃は、俺のギモンを一気にそこまで吹っ飛ばした。


 なぜ人は絵を描くのか?
 もちろん絵と言ってもいろいろある。イラストレーションのように「意味」を伝えることが第一義となる絵もある。牛乳やコンビーフのパッケージに、実存的な牛が描いてあってもしょうがあるまい。そこで必要とされるものはあくまで観念的なイメージとしての「牛」なのだ。なぜならば「意味」の視覚的な伝達のためにこそ、それらの絵は描かれるからである。そこでは描かれる絵とその必要性は、明確だ。
 その必要性をさらに辿っていくと、窮極には文字の発明にまで至る。この世界には「牛」と呼ばれる動物が存在する。その昔、人間はその獣から逃げるなり、捕獲するなり、売買するなりするために、その動物をあらわす呼称が必要となったのだろう。そしてその要望に応えるべく、「牛」という言葉が発明される。つまり「牛」という文字は、「牛」という観念を伝える窮極のイラストレーションでもある。
 しかし「牛」という言葉は、あくまで牛という種全体をあらわす呼び名に過ぎない。それは牛とその他の動物を区別するために、必要に迫られて考案された任意の記号に過ぎないのだ。それは「牛」という動物の包括的なイメージを表象することは可能であるが、例えばいま目の前で草を食んでいる「この牛」そのものをあらわすことはできない。それは確かに「牛」と呼称されるもののうちの一頭ではあるが、その呼び名だけでは「拾いきれないもの」もまたそこには存在する。

 ではいま自分の目の前で草を食んでいる「この牛」と、「牛」という文字やイラストであらわされる観念的な「牛」とでは、いったいどこが違うのだろうか?
 拙速に思い浮かぶのは、表面的な個体差だ。いま目の前にいるこの牛は、ちょっと角が長い。足が短い。耳の形が変だ。尻が汚れている。確かにそうだろう。そして凡庸な絵描きはその個体差を見たままに描くことこそが「写実」だと思い込む。凡庸な鑑賞者はそれを「まるで写真のように描けている」と賞賛する。
 でもそんなものは実は些細なチガイに過ぎないのだ。「牛」という文字と、目の前にいる牛の間には、もっともっと根本的で、巨大な差異が存在する。

 冒頭に引用した熊谷のコトバは、その「巨大な差異」をスコブル端的に指摘している。いくら毛並みの一本一本の艶まで丹念に描けていても、それが永遠に画面の中で静止した「牛」でしかないのであれば、「写実」の意味合いにおいて、それは「牛」という文字とさして変わりはない。それは観念的な「牛」なのだ。
 写真のように描くのであれば、写真を見て描けば事足りる。しかし自分が見て、感じている、ありのままの牛を描くのであれば、自分の目で確と、その牛が自分自身のなかに取り込まれるまで、見て取らなければならない。そこで必要となるのは機械のように精緻な手先の技術などではなく、「世界」を見て取る強靭な目と優れた感受性だ。それなしでの「写実」など、在り得るはずもない。


 「実際のものは、自然はそこにいない」ことまでをも表現すること、それこそがほんとうの「写実」である。そこまでは、いい。
 しかし、その行為にはいったいどんな意味があるのだろうか?
 少なくとも「牛」という文字や記号的な牛のイメージを描いた絵には、用途がある。描かれるべき必要性があるのだ。
 では「写実」の牛を描くことには、いったいどんな必要性があるのか?

 例えば記録のために描かれる絵であれば、「自然はそこにいない」ことまでをも表現することは、とくに求められないのかもしれない。例えば博物画などでは、むしろ牛の毛の一本一本まで正確に写し取ることのほうが、その役割としては重要であり、有効に活用もされる。たとえその絵のなかの牛が永遠にそこに静止したままでも、それはさして大きな問題とはならないだろう。
 記録のために描かれる絵は、記録という「役割」を担っている。それはコンビーフや牛乳のパッケージに描かれる牛の絵が「牛」という観念的なイメージを消費者に伝えるという役割を担っているのと同じく、描かれるべき必然性や伝えるべき「意味」が明確だ。
 しかし熊谷の絵に見られるようなほんとうの「写実」は、そうした明確な「役割」からは食み出した部分にこそあるように思える。

 「見たままに描く」とは、写実をめぐってよく使われる文句であるが、しかし人間は決して自分が「見たまま」を他人に伝えることはできない。たとえ網膜に映った映像を光学的に完璧に再現できたとしても、それはその人間が「見ている」ものの、ほんの表層でしかない。「似てない写真」といったものがままあるように、我々は光学的処理によって再現される以上の情報を、目の前の光景から見ているのだ。
 さらに突き詰めて言えば、マッタク同じ光景を見ていても、それを見るAという人間と、Bという人間では、その印象はあきらかに異なるハズなのだ。子牛が草を食む同じ光景を見ていたとしても、それを観念的な「牛」のイメージでしか見られぬものと、「その牛」に対して個別な愛情を感じているものでは、あきらかにその「見ているもの」は大きく異なるだろう。同じように、牛の姿に美しさを見るものもいれば、醜さを見るものもいる。美味そうに草を喰っていると見るものもいれば、美味そうな牛だと見るものもいる。
 つまりAの見ている世界はあくまで「Aにとっての世界」でしかなく、Bの見ている世界は「Bにとっての世界」でしかない。なぜならば、人間はあくまで「自分」としてでしか「この世界」を感じることはできないからだ。この「自分/世界」という世界認識の構図が変わらぬ限り、たとえ第三者の網膜に写るイメージを光学的に完全に再現できたとしても、我々の見る再現されたそれは、その本人の見ている「世界」とは、似ても似つかぬものであるハズなのだ。

 この「自分」としてでしか見ることの出来ない「世界」の非交換性は、芸術というものの発生における大きな要因となる。人は「自分」以外には見ることの出来ない「世界」を表現するために、絵や、詩や、音楽を、生み出してきたのではないだろうか。実用的な言葉だけでは表現しきれぬものを伝えるために詩的な言語や文学的な表現が生まれ、観念的な図だけでは伝えきれぬ「自分が見ているもの」をあらわすために「写実」な絵が必要となる。「世界」の非交換性を打ち破ろうとするとき、人ははじめて芸術というものを必要とするのだ。

 では伝達不可能なはずの「世界」を描き出すことに、どんな意味があるのか?
 伝達不可能なはずの「自分が見ているもの」が描き出されたとき、そこではいったい何が起こっているのか?

 先にも書いた通り、人は「自分」としてでしか「この世界」を見ることが出来ない。俺の見ている、感じている、生きている「世界」を、そのまま誰かに伝えるためには、「自分/世界」という世界認識の構図を変える、つまり俺がその誰かになったり、その誰かが俺になったりするしか方法がない。モチロンそんなことは不可能だ。だから俺の見ている「世界」は、俺以外の誰にも伝えることができない。つまり「世界」は閉じている。
 しかしもし、そのほんの一端でも他者に伝えることが出来るのであれば、つまりその「俺だけにしか見ることの出来ない世界」を、「俺」だけで閉じている「世界」の外へと出すことが出来るのであれば、そのとき「この世界」は大きく反転することになる。

 「写実」のほんとうの意味は、そこにある。ゼッタイに伝えられないはずの自分の見ている「世界」、つまりこの閉じた「世界」を、自分以外の人間にも見えるようにする、つまり閉じた「世界」の外へと解放するのだ。それは「世界」そのものを描くことによって、「世界」自体を反転させる行為である。
 熊谷は一頭の牛を、一匹の猫を、一羽の小鳥を描くことで、「世界」そのものを描いている。描かれた牛が「何時でもそこにいる」のではなく、「実際のものは、自然はそこにいない」ことまでも表現されるとき、「自分」以外には決して感受出来ないはずであった閉じられた「世界」は、その瞬間大きく反転しているのだ。


 しかし、熊谷の絵のような「写実」は、今日ではもはや実現が難しくなっているのかもしれない。一匹の猫を描くだけで「この世界」そのものを描いてしまうような画家は、今後そうはあらわれてこないだろう。それは単に熊谷が傑出した画家であるというだけでなく、「世界」自体がより見えにくくなっていることとも関係しているからだ。
 身の周りから自然が消え、二次的な情報の渦によって成り立つ我々の「世界」は、観念的なものと実存的なもののミックス状態で出来ている。存在はメタ化され、世界は記号化され、網膜に写る目前の光景から「この世界」そのものの姿を見付け出すことは、日々難しくなっている。「この世界」自体が「写実」から遠ざかっていると言ってもよい。
 そんな中、相も変わらず浅薄なマスコミや評論家は、文字で名前を大書したのとさして変わらぬ観念的な表現を「この世界」そのものを描いたものだとして称揚する。それは、「牛」という文字とさして変わらぬ観念的な牛の絵を、毛並みの一本一本まで写真のように精緻に描いているというだけで写実ともてはやすような、いや「牛」を描いているという理由だけでイコール「現実」を描いていると極論するような、そんな低レベルの「眼力」だ。「世界」の見えにくさは、眼の貧困をも加速させる。ほんとうの「写実」が生まれる素地は、日々限りなく狭くなっている。

 しかしいくら社会の情報化が進み、「現実」が目で見、肌で感じるものから、よりバーチャルなものへと移行したのだとしても、未だ「世界」が閉じていることには変わりがない。「世界」を感受する方法はより多様かつ複雑になったのかもしれないが、しかしそれを「見る」主体は、人間が人間である限り、「自分」の外には出ることができない。そして人間が「自分」以外の生を生きることが出来ない限り、各々の見ている「世界」は、未だ交換不可能なままなのだ。
 つまり人間が人間である限り、「俺」が「俺」である限り、「世界」を表現しようとすること、すなわちほんとうの「写実」は、その必要性を失わない。「世界」を反転することを目的とした芸術も、その意味を失わない。
 熊谷守一のような透徹な眼差しをもって「世界」を見つめ、そして「この世界」を丸ごと反転してしまうようなそんな表現を、描き手としても受けとめ手としても、探し求めていきたい。



(2008/4/2 upload)

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